「上書き」は今この瞬間から
- 男子サッカー部 大阪教育大学体育会
- 10月30日
- 読了時間: 11分
どうも。こんにちは。
ハロウィンの行事でカオナシのコスプレをして、バイト先の子どもを泣かせてしまいました。
スポーツ科学専攻4回生の栢原悠聖です。
バイト先で、子どもに犬飼先生と間違えられることが多々あります。
色が黒いから?髪型が似てるから?
でも、良いんです。
あの素敵な人と一緒してもらえる。
この上ない幸せなことです。
もうこの時期が来てしまいました。引退ブログ。
去年かなとくん(犬飼先生)のブログを読んで泣いた日から1年経つのかと思うと早いものです。
同期の引退ブログを読んでいると、やっぱりみんな良い奴やなってしみじみ思います。
人の心を動かすことのできる文章を書きたい。ってことで頑張って書いてみます。
よろしくお願いします。
現在10月14日午前2時32分。
大いに賑わった大阪・関西万博も閉幕し、寝床に着こうと思ったが、寝れないので思うままに綴っていく。
引退ブログって言われても何を書けばいいのか。
とりあえず、自分のサッカー人生を振り返ってみる。
出会いは小学2年生。
くらしき作陽大学のグラウンドでサッカーの練習を見学しに行ったと思いきや、いつの間にか玉島FCの真っ赤なユニフォームに袖を通していた。
当時は、自分でも初心者にしてはかなりやれるという手応えがあったと記憶している。
足が速かった。ただそれだけで。
それからずっとFWやサイドハーフ、たまにボランチをしてサッカー選手としての基礎を築いていった。
トレセンには唯一4年生ながら選ばれたこともあった。試合に出たらほぼ毎試合点を取っていたし、大会に出ても大体優勝して、負けた記憶はあまりない。
でも学年が上がるにつれあまり勝てなくなったな。。。
みんなが放課後遊んでいる隣で、父親とよくサッカーの練習もした。
当時は怒られるのが嫌でやりたくなかったけど。でもあの練習のおかげでキックの左右差がなくなった。
これは後々自分の武器となる。今思えば最大の財産。
あの時練習してくれた父親には感謝しかない。
小学生の思い出は、小学4年生の時に、審判に暴言吐いてレッドカードをもらったことではなく、サンフレッチェ広島と試合をした時に、カットインから斜め45度にスーパーゴラッソを決めたこと。
あの時の感覚は今でも忘れられない。
中学校時代は約20倍のセレクションを突破してファジアーノ岡山U-15に入団した。
最初の練習で試合があり、自分の名前がボードに無いなと探しているとなぜか、右サイドバックのところに名前がある。
ん??え??疑問に思うも、とりあえず与えられたポジションでやるだけ。
これが私がサイドバックをすることになったきっかけ。
それからずっとサイドバックかセンターバックで試合に出ていたが、とりあえず前にロングボールを蹴るだけの安パイプレー。でも、いつの間にか、ビルドアップが得意になり長短のパスの判断が身についていった。
3年の夏にユースの遠征に帯同することになって、サービスエリアに着く前に財布を取り出そうとしたら、入れているはずの青のナイキのアップサックがないことに気づいた。
駅に置いてきてしまったのだ。
早急に、駅に電話して拾ってもらったが、確か4泊5日くらい長い遠征で無一文で過ごすことになった。忘れたと気づいた時は、この世の終わりみたいな顔をしていたに違いない。というかしていた。幸いにも同期がお金を貸してくれて難を逃れた。当時の同期には感謝している。ありがとう。
最終節を勝ちプログレスリーグ優勝して、最後の全国大会、高円宮杯に出ることができた。
1回戦で川崎フロンターレとしたが、あっけなく負けた。
高校はそのままユースに昇格した。
駅から練習場まで自転車で40分もかかる。風が強い日は全然進まないし、雨の日はカッパを着てもびしょびしょになる。過酷すぎた。
1年生の時は国体に出た。神奈川県に勝った時は、今まででサッカーしてきた中で一番嬉しかった瞬間かもしれない。プロの試合にも出さしてもらう機会があり、おそらく私の全盛期はこの高校1年生の時である。
2年生はコロナでサッカーよりも、荒野行動に情熱を注いだ。二本指から三本指になれるまで相当苦労した。さよドラを見て勉強した。あと、プロとの練習試合で手折れた。
3年生になって監督が変わって、なぜか学芸館の練習よりも走るという謎の展開が起きた。あの火曜日の走りは今でも覚えている。あの積み重ねで体力は異常に伸びた。そうこうしているうちに、また監督が変わった。何回変わるねん。3年間のうち4人の監督が来るってあんまないやろ。
それから大学入試の勉強ですとか言って練習遅れていったり、休んだり、あー、懐かしいな。
そんなこんなで高校卒業した。
と、ここで眠気が襲ってきたので寝ます。おやすみなさい。
起きて見ると、かなりひどいものができてしまった。
あんな深夜にブログは書くものではない。でも、色々な思い出が蘇ってきてなんか良かった。
続き書きますか。
大学に入って、正直すぐに試合に出られると思っていたが、3試合しか出られず、残りの期間は、砂田チルドレンのメンバーとして活動した。
2回生では初めて救急車に乗って、初めて手術を経験した。術後のリハビリをしている最中に、隣の部屋から大音量の競艇のファンファーレが流れてきた瞬間は今でも忘れられない。
3回生になって、本格的に試合に出られるようになり、自分が来て初めてあんなに強い大教大を見た。最初の3節までは、正直負ける気がしなかった。でも後期に怪我してしまった。チームも昇格争いできると思ったが、結局中位で終わった。
4回生になり、これからという時に、手術が待っていた。みんなが楽しそうにサッカーをしている中、自分は練習のサポートをしたり、みんなの試合を見たり。
正直なんの感情もないまま2ヶ月が過ぎていった。
そんなこんなでリーグが開幕した。
月日が経つにつれ、徐々にチームの目標が「優勝・一部昇格」から「一部昇格」、「プレーオフ進出」と徐々に下がっていき、いつの間にか「2部残留」にまで落ちていった。
正直最初の方は、負けても悔しいとは1ミリも思っていなかった。
なぜかって。
自分が試合に出ていないから。
自分が試合に出たらもっとボールが回るのに。
自分が試合に出たらもっと攻撃が活性化するのに。
とベンチから見てそう思っていた。
でも、途中で試合に出ていく中で、流れを変えることができない。
得点に結びつくようなプレーができない。
徐々に、自分が出たところで何も変わらないのだと実感していった。
だって途中で出てきて嫌な選手って、とにかくドリブルがキレキレな選手でしょ。
自分は、海喜みたいにドリブルで切り裂くタイプではない。
攻撃でパスやクロスで流れを変えるって流石に限界がある。
途中で出ても5〜10分くらい、なおかつ試合も負けている状況で、点を取れずにそのまま負けてしまう。
俺が試合に出ている意味なくない?
俺出るんやったらもっと他のやつ出した方がいいやろ。
頼むから、ベンチで気楽に座らせてくれ。
と自分が試合に出たくない理由を探し始めていた。
そんな中、練習もただこなすだけ。
みんなが自主練習をしていても、誰よりも早く帰る。
みんなが試合で戦っている中、ベンチでエイルとゲンと笑顔で色々なお話をする。
ベンチの中で誰が出るかを当てて楽しむ。
ハーフタイム中のアップは、ロングキックを気持ちよく蹴って終わり。
自分にとって楽しいはずのサッカーが、ただ単に楽しくもない作業になっていった。
そうこうしていると、徐々に3部降格への現実が帯びてきた。
本当にこのまま終わっていいのか。
特に今年は4年生として、チームを引っ張っていく存在であるべきで、このチームに何か影響を与えられているかと言われると、そうではない。
サッカー選手引退まであと、2ヶ月。
今まで、続けてきたサッカー人生。
こんな終わり方でいい訳が無い。
自分は声を出してチームを引っ張るタイプではない。
サッカー中のプレーを通して、チームにいい影響を与える。それしかない。
そう意気込んだ後期第4節の大阪大学との試合。
いつも通りベンチで試合を見ていると、松原先生から呼ばれた。
まだ、後半20分。いつも残り5分とかで出されるのに。
こんなに長く試合に出れる(去年はフル出場したことがない上に、今年は出場してもたったの5分のせいで、感覚がバグってる)のは、久しぶりで、素直に嬉しかった。
まじで結果残してやろうと思って試合に入った。
ファーストプレー。
サイドチェンジのボールを上手くトラップでき、そのまま空いているスペースに、ゴルフのアプローチショットさながらのスピンを効かしたパス。
そのパスが、ファールを誘った。
それで得たFKが直接決まり、自分のパスがきっかけでゴールが決まった。
そして、試合にも勝った。
勝つってやっぱり最高やなって思った。
でも、なんで今って。残り2ヶ月しかないのに。
遅いだろって。
この4年間を通して考えても、サッカーに本気で向き合っていたつもりになっていた。
特に最後の1年間は悔やまれる。
後輩のみんなにはこんな思いは絶対にしてほしくない。
4年生になってから頑張ればいいや。来年からはちゃんとするからいいや。
そんな中途半端な思いでやっていないか。
自分はそんな中途半端な思いのせいで、最後の1年は自分が思い描いたものとはかけ離れたものになってしまった。
もし今、そんな中途半端な気持ちでやっているなら、今すぐ気持ちを切り替えて欲しい。
チームのため、今の自分のため、そして未来の自分のために手を抜かず積み上げてほしい。
そのひたむきな姿勢がいつか、未来の自分を創り上げると思う。
俺のサッカー人生はあと3週間で終わる。
もう失うものは何もない。
リーグ戦も残り3試合。残留の望みが残っている限り、チームのために戦う。
ただそれだけ。
どんな結果になろうと、この3週間で自分のサッカー人生を一番良いものに「上書き」する。
残留の灯が消えるその瞬間まで、チームのために。
「上書き」は、今この瞬間から。
最後にあと一つだけ。
チームを支えてくれる人への感謝の気持ちをもっと表現してもいいのではないかと思う。
自分のボトルに水が入っていること、テーピングを巻いてくれること、当たり前だと思っていない?
プライベートを犠牲にしてまで、自分たちのサッカーのサポートをしてくれているマネージャー、テーピングを巻いてくれるトレーナー、次の対戦相手の分析をしてくれるアナリスト。俺らが知らないところで、色々動いてくれているということを忘れてはいけない。
そういう支えてくれる人のためにも、もう少し感謝を伝えてもいいのではと思う。
ビブスを回収してくれる時に、ありがとうと一言添えるなど、感謝を伝えるところはいつでもある。
今、自分たちがサッカーを真剣に取り組めているのは、裏での支えがあってこそのものだということを忘れないでほしい。
お世話になった人へ。
同期へ
ほんまに面白くて一緒にいて楽しい奴ばっかりやった。りゅうやがやまだいにちょっかいを出したら、100倍で返ってきたこと。みっちゃんが怒るギリギリを攻める選手権(だいたい完治が負ける)。慶次郎が一年生の時の謎の体調不良など挙げたらキリがないほどエピソードが出てくる。この学年で良かったと本気で思えた。本当にありがとう。
後輩へ
いつの間にかアニキと呼ばれるようになり、練習中や試合中でも呼ばれた時は流石にビビった。でも嬉しかったよ。
大教大は人数が少ないけど、逆にそれはメリットやと思う。
みんなが一緒の方向に向いて切磋琢磨しあえる。
特に試合に出ていない人は、試合に出ている人とできる貴重な時間であることを忘れないでほしい。
ただ練習をこなすのではなく、毎回明確な目標を持って取り組むことで、もっと大教大は、個人としてもチームとしても成長できると思う。(誰がいうてんの)
今までありがとう。
来年、応援行きます。頑張って。
両親へ
小さい時から、何不自由ない生活をさせてくれました。大学生になっても、月に1回は岡山から試合を見にきてくれて、応援してくれてありがとう。残り少ないけど、頑張るので応援してください。あと2年は脛をかじることになるけど、必ず自慢の息子になるので期待してください。
ここまで読んでくれたみんな。ありがとうございます。
今思っていることを書いたらこんなに書いてしまいました。
不器用だった4年間も、振り返れば全部つながっていた。
悔いがゼロになることはないけれど、その悔しさも含めて、僕のサッカー人生です。
来年も変わらず、大阪教育大学サッカー部への応援をよろしくお願いします。
僕は、教師になるために勉強の旅に出ます。
では、またどこかで。
次は、数々のアルバイトをこなしてきた、ベテランテクニシャン。
そして、この4年間で誰よりも濃い経験をしたであろう、齊藤琉矢。
彼の秘めたる想いに是非注目してください!




コメント